韓国の異常な国民性の
主原因は、多分遺伝子です






韓国マスコミが頻繁に取り上げる 李 容洙 は、絶対に従軍慰安婦ではありません。いいかげにしろ!と言いたい。韓国人はキチガイである。

「私たちは、主に特攻隊の相手をしました。(略)陸軍なのか海軍なのか空軍なのか区別できませんでした」
 李 容洙 証言 強制連行された朝鮮人慰安婦たち P139より

@第二次大戦当時、日本には空軍など存在しない
A当時、陸軍と海軍の慰安所は、完全に別々であった。陸軍と海軍が共有している慰安所など吉見義明中央大学名誉教授の労作である従軍慰安婦資料集からみて絶対に存在しない。
B当時の陸軍と海軍の軍服は全く異なる

下記資料に基づき、朝鮮人従軍慰安婦の証言を検証しました。

「証言 強制連行された朝鮮人慰安婦たち」1993年日本語訳初版発行


「韓国挺身隊問題対策協議会」という従軍慰安婦問題を韓国内で追及している民間団体が韓国で発行した書籍の翻訳で、19名の朝鮮人元慰安婦の証言が掲載されています。「挺身隊」となっているのは、当時の韓国では、女子挺身隊=従軍慰安婦であると混同されていたためであり、 現在、上記団体は「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」と名称を改めています。なお、そのような混同・勘違いの原因は、千田夏生(ペンネーム)という従軍慰安婦問題を20世紀末に取り上げ始めた日本人にあるようです。


吉見先生による朝鮮人従軍慰安婦への聞取り


中央大学論集に掲載された吉見義明中央大学名誉教授による朝鮮人従軍慰安婦への聞取り
@ある元日本軍「慰安婦」の回想(3)   黄善順さんからの聞き取り 中央大学論集 第34号 2013年2月
Aある元日本軍「慰安婦」の回想(5)   安点順さんからの聞き取り 中央大学論集 第36号 2015年2月
Bある元日本軍「慰安婦」の回想(4)   安点順さんからの聞き取り 中央大学論集 第35号 2014年2月
Cある元日本軍「慰安婦」の回想(6)   金福童さんからの聞き取り 中央大学論集 第37号 2016年3月
Dある元日本軍「慰安婦」の回想(7)   李玉善さんからの聞き取り 中央大学論集 第38号 2017年2月  


韓国のWikipedia記事によれば、韓国政府認定の従軍慰安婦者数は、死亡者を含めて、240名です。





以下の枠内太字部分は、「証言 強制連行された朝鮮人慰安婦たち」の各章の冒頭の証言要約をそのまま一切修正せずに原文を直接引用しています。

#1 金 学順  「強制連行された朝鮮人慰安婦たち」P41 

1924年中国吉林省生まれ。生後百日にもならぬうちに父が死亡。母と平壌に戻った。その後継父の下で生長し、15歳で平壌の妓生巻番に通い17歳で卒業した。しかし、まだ営業できる年ではなかったため中国に渡る。北京に到着すると同時に軍部隊に連行され慰安婦生活させられることになる。
@妓生(キーセン)とは、酒席で歌・踊りなどを披露する女性ですが、官妓(李朝朝鮮の公式接待用)と私妓の両者があり、後者は、楽器を弾き、舞踊が出来る点で確かに売春婦と異なります。この側面では、日本の芸妓と同じですが、特定の「旦那」が存在しない点で決定的に異なり、ほぼ「性的サービス料が高価格の売春婦」に近い存在でした。

A継父とありますが、要約の完全な誤りです。P43「母は、私を妓生を養成する家の養女に出しました。(略)母は養父から40円を貰い、何年かの契約でその家に置いて行ったと記憶しています」とあり、事実上、夫がなくなった母が生活に困り、妓生派遣業を営む男性(=養父)に娘を売ったに等しいのです。




金 学順さんが強制連行されたと証言している1941年当時でも、満18歳以下の女子は、妓生のような職業につくことを禁じる国際条約が存在し当時の日本もその条約に調印していました。(売春を合法とするか否かは、各国の判断ですが、18歳以下の女子については不可としていました。)

P44「ところが19歳にならないと役所から妓生許可が下りないのです。卒業した年、私は17歳だったので卒業しても営業することが出来ませんでした」

正しい証言であり、正確には数え年19歳=満18歳です、役所とは当時の朝鮮総督府のことです。言い換えれば、朝鮮総督府は、条約をきちんと順守していたことを明確に示す非常に貴重な証言です。なお、この条約に関しては、吉見義明氏も言及され、従軍慰安婦に少数ですが18歳以下の女性が含まれていたため、日本軍が条約を順守していなかったと批判しておられますが、そのとおりです。(吉見義明、「従軍慰安婦」)

キチガイじみた韓国人連中は、「14歳から15歳の少女を朝鮮半島内で強制連行した」などと半狂乱の主張をしていますが、そのためには、朝鮮総督府と日本軍が協力する必要があります。朝鮮総督府は上記慰安婦証言のように、妓生の営業許可を満18歳になるまで下ろしていなかったことは確実=朝鮮総督府(警察)が「14歳から15歳の少女を朝鮮内で強制連行することに協力していなかった」ことも確実です。

重要なのは、上記が元慰安婦の証言からも明らかであることです。

私がこの証言集を読んだ際、「強制連行」されたと証言している女性4名中で、唯一少しだけ信憑性が高いと思えたのは、この金 学順さんのみであり、該当ページは下の写真のとおりです。




私のような歴史マニアにとっては、常識中の常識なのですが、第二次大戦中の中国戦線では当時の陸軍は、弾薬は勿論、重砲さえ馬に曳かせて、広大な中国大陸を歩きに歩いて転戦したのです。1師団当たりの運搬用の馬の数は、1万頭程度にも上ったとされています。兵士の数は、1個歩兵大隊4個中隊(3個歩兵中隊+機関銃中隊)構成のフル編成の師団で、1.5万〜1.7万程度ですから、いかに運搬用の馬の数が多かったのかかがわかるでしょう。(宇垣軍縮後は、概ね歩兵中隊が1個中隊減りました。)

ですから、歩兵がトラックに乗ることなどほとんどありません。もし、万一、「中国戦線で歩兵がトラックに乗って移動している」国内宣伝用報道写真ではない本物の写真を発見された方がいれば、非常に珍しく貴重ですから、是非私までご一報ください。(右上の「ご意見・ご感想」フォームにて連絡頂くようお願い申し上げます。)

つまり、「無蓋のトラックに乗っていた日本軍兵士に無理やりにトラックに乗せられた」という金学順さんの証言が、真実である可能性は極めて低いのです

 
#2 金 徳鎮(仮名) 「強制連行された朝鮮人慰安婦たち」P57

1921年慶尚北道生まれ。一家は伯父の下で農業をしてつつましく暮らしていたが、父親が日本の巡査に捕らえられ、酷い暴行を受けた末死亡。暮らしが更に苦しくなり住み込みに入る。1937年17歳になった年、日本の工場で働く女工を募集しているという誘いにつられ、慰安婦生活を余儀なくされた。1940年日本軍将校の助けで帰国した
【楼主=慰安所経営者】
P62
「私たちを引率してきた朝鮮人が経営者のようでしたが、」と証言しています。

#3 李 英淑 「強制連行された朝鮮人慰安婦たち」P71

孤児の身で、大阪で10歳ころから奉公をした。両親が朝鮮人だからと1937年、15歳の時に朝鮮に帰ったが、孤児だという理由で奉公させてもらえなかった。1939年、日本で就職させてやるという人がいるので一緒に行こうと友達に誘われ、新義州、下関、台湾を経て広東の日本軍部隊に連行され、慰安婦生活をするようになった。
【楼主=慰安所経営者】
P76
「日本人の経営者は、」


#4 河 順女 「強制連行された朝鮮人慰安婦たち」P84

1920年晋州生まれ。家が貧しく小学校に正規の入学年齢より遅れて入学した。そのため学友にからかわれ、学校に行くのが嫌だったが、どうしても行けと父親に叱られて、着のみ着のまま家を出た。その後光州でしばらく女中奉公をしていたが、21〜22の頃、金になるからと誘われるままついて行き、上海の軍部隊へ連れられて慰安婦生活を送るようになった
【楼主=慰安所経営者】
P87
「日本人の男がその家の経営者」


#5 呉 五穆 「強制連行された朝鮮人慰安婦たち」P95

1921年全羅北道井邑生まれ。2男3女のいる貧しい家庭の長女に生まれた。1937年満16歳になった年、井邑に住む金という男に日本の紡績工場に就職させてやると言われ、 友人とついて行った。満州に到着するや、日本人に引き渡され、日本軍の部隊に連れていかれ慰安婦にさせられた
【楼主=慰安所経営者】
P97
「慰安所の管理人の中には日本人も朝鮮人もいました」


#6 黄 錦周 「強制連行された朝鮮人慰安婦たち」P103

1922年扶餘生まれ。ソンビの家の長女だったが、父の発病後、家運が傾く。1934年、13歳の時、家を出て奉公に出る。日本人の班長が、日本の軍需工場に行けば金が儲かる、一家に1人はいかねばならないと脅すので、奉公先の家の娘たちに代わって1941年、20歳で故国を離れ、軍の慰安婦となった


#7 文 必璂 「強制連行された朝鮮人慰安婦たち」P117

1925年慶尚北道生まれ。家はさほど貧しくはなかった。兄弟は2男9女。勉学への思いが強く、母親が父親に黙って9歳の時に学校に入れてくれたが、父の反対にあい中退した。1943年、18歳の時、勉強もできるし、金も儲かるという男の言葉に騙されて、満州の軍慰安所に連れていかれた
P121

「慰安所で私たちを監督し、券を集め計算する仕事をする朝鮮人男性が2人いました」

#8 李 容洙 「強制連行された朝鮮人慰安婦たち」P131

1928年大邸生まれ。貧困家庭の1人娘(男兄弟の中の女1人)で達城普通学校に入学したが、家庭の事情が許さず1年も通えなかった。他家で乳母をしている母親の代わりに弟の世話をしたり、製綿工場で働いた。日本人の口車に乗せられて友達と一緒に台湾の軍慰安所に連れていかれた
【私の個人的見解】
証言内容は、無茶苦茶であり、論評に値しない。一読して直ぐに嘘と分かる内容である。この人物は絶対に従軍慰安婦ではない。いちいち上げればきりがないが、

P139
「私たちは、主に特攻隊の相手をしました。(略)陸軍なのか海軍なのか空軍なのか区別できませんでした」

いいかげんにしろ!第2次大戦当時、日本には空軍など存在しない。

#9 李 玉粉 「強制連行された朝鮮人慰安婦たち」P144

1926年慶尚北道氷川生まれ。家の暮らしは楽な方で、4人兄弟の中の1人娘だった。11歳の時、氷川南部小学校に入ったが、12歳で厨山に引っ越した。引っ越しして2カ月後、友達とゴム遊びをして遊んでいるところへ、日本人1人と朝鮮人1人が来て、お父さんが探しているよと言うのでついて行くと、そのまま3か月監禁された。その後、船に乗って下関を経て台湾の慰安所に連れていかれた
当時の朝鮮半島では、少女誘拐事件は、確かに多発していたようです。



#10 文 玉珠 「強制連行された朝鮮人慰安婦たち」P159

1924年大邸生まれ。8歳の時、独立運動をしていた父が帰宅したが、病気でなくなる。暮らし向きは楽な方ではなかったが勉強が好きで、勉強させてやるという親戚について日本に行ったが、女中の仕事ばかりやらされるので、こっそり逃げ帰ったこともある。16歳になった1940年、友達の家に行ったところ日本の憲兵に捕まり、満州の慰安所に連れていかれ、そこで慰安婦生活をさせられた
【私の個人的見解】
P162に「軍服を着た日本人」に事実上拉致されたと証言しているが、日本人とする根拠は、その人物が日本語を喋ったという点のみです。当時の朝鮮では、内鮮一体の名のもとに日本語教育と日本人名使用が強く勧められており、多くの朝鮮人が日本語ペラペラの状態です。また、当時のいわゆる国民服は、軍服とよく似ており、「連れていかれた先は憲兵隊ではないかと思われます」とのみ証言し、その後、「軍服を着た日本人は、(略)駅前に連れて行って普通の服を着た日本人の男と朝鮮人の男に渡しました」と証言しており、ほぼ確実に、日本人巡査又は軍人に見せかけた朝鮮人による単なる誘拐です。

#11 李 順玉(仮名) 「強制連行された朝鮮人慰安婦たち」P180

1921年慶尚北道孟徳に生まれる。同じ村に住む親戚が独立運動をしていたため厳しく監視されていた。17歳になるころ、処女供出の噂を聞いて、ある男性と書類上の婚姻届けを出したが、新妻のふりをするのが嫌でたまらず、日本の工場に就職させてくれるという人の話を信じてお金を稼ごうとついて行った。着いたところは中国関東軍部隊の慰安所だった。


#12 李 相玉 「強制連行された朝鮮人慰安婦たち」P195

1922年慶尚北道達城生まれ。暮らし向きは比較的裕福だった。兄の大反対で学校に行けなくなったため、親みも告げず京城(ソウル)の伯母のところへ行き、4年生になるまで学校に通う。伯母が自分のことであまり気をもむので、家を出て紹介所を訪ねる。お金を稼ぎに日本の工場へ行くという女たちについて行くことにしたが、パラオに連れていかれ、慰安婦生活を強いられた。
紹介所は、下記画像のように慰安婦も募集していました




#13 李 得南 仮名 「強制連行された朝鮮人慰安婦たち」P212

1918年、慶尚南道居昌生まれ。酒とばくちを続ける父親の荒れて暴れる生活が嫌になり、家出する機会をうかがっていた。伯母のいる満州に行き、伯母が経営するカフェで小間使いをするようになった。1939年、22歳の頃、カフェで働いていた女たちと漢口に連れていかれ、慰安婦生活をするようになった。


#14 李 用女 「強制連行された朝鮮人慰安婦たち」P227

1926年京畿道ヨジョ生まれ。家が非常に貧しく8歳から奉公に出た。11歳でソウルに上京し工場で働いたり奉公もしたが、14歳で飲み屋に売られた。そこで使い走りをしたり酌婦をやらされたが、1942年、満16歳の時、女主人に騙されて釜山、台湾、シンガポールを経由してビルマのラングーンに到着。ビルマ山中で慰安婦生活をさせられることになった
【私の個人的見解】
P230で、李 用女さんは、「父は前金を受け取って、私を送り出したのです。」と証言しており、「売られた」とは証言していません。明確に、韓国における性理学(儒学)の影響が読み取れます。本人の認識は、「騙された」ですが、事実上、飲み屋の女主人が、「買った子を転売した」と推定します。


#15 金 台善 仮名 「強制連行された朝鮮人慰安婦たち」P95

1926年、全羅南道カンジン生まれ。母がアヘンを吸う父と離婚したので、伯父の家で育った。その後父親は行方不明になり、母は数年後亡くなった。1944年、18歳になったある日、日本人1人と朝鮮人1人が伯父の家にきて、「日本の工場で就職させてやる」と騙し、その言葉を信じて家を出たが、釜山、大阪、サイゴンを経てビルマの軍慰安所に連行されてしまった。
【私の個人的見解】
騙されたのではなく、ほぼ確実に伯父に「売られた」と思われます。


#16 朴 順愛 仮名 「強制連行された朝鮮人慰安婦たち」P253

1919年全羅北道ムジュ生まれ。16歳の時、貧しい家庭に事情も知らずに嫁いだが、その家を逃げ出し、1936年18歳で再び金持ちの後妻に入った。1938年に息子を出産。1941年23歳の時、平素から猜疑心の強かった夫に紹介所に売り渡された。紹介所で慰問団を募集するという話を聞き、早くお金を稼いで息子と一緒に暮らそうと思い自ら志願した。ラバウルまで連れられて行き慰安婦生活をするようになった


#17 崔 明順 「強制連行された朝鮮人慰安婦たち」P269

1926年、ソウル生まれ。1945年19歳の時町内会の人が来て、「家でぶらぶらしているのなら就職した方が良い。このまま家にいたら挺身隊に連行されるかもしれない」と言われて悩んだが、数日後、彼を訪ねて家を出た。就職先は日本だと言っていたのに、誰ともわからない将校の妾にされた。その家の息子に、家に帰してくれと懇願すると、日本軍のある部隊に引き渡され、慰安婦生活をさせられることになった。帰国後、結婚して子供を産んだが、慰安所でかかった病気が原因で長男は40歳頃から精神疾患を患うようになった


#18 姜 徳景 「強制連行された朝鮮人慰安婦たち」P286

1929年慶南の晋州生まれ。父親は早くに亡くなり、母親が再婚したため、母の実家で育った。裕福な方だったので国民学校を卒業し高等科に入学した。1944年16歳の高等科1年生の時、女子挺身隊1期生として日本に渡り、富山県の不二越飛行機工場に勤務するようになった。そこでの生活があまりにつらくて逃げだしたが、軍人に捕まってしまった。そのまま部隊に連行され慰安婦生活をさせられることになった
【私の個人的見解】
虚偽証言であると完全に断定します。100%確信があります。

@当時の朝鮮半島では、日本と同じシステムで初等教育が実施され、国民学校は、義務教育である初等科が6年、高等科が2年です。
「16歳になった1944年6月頃、女子挺身隊第1期生として日本に行きました。吉野国民学校高等科1年生のときです」(P287)とありますが、絶対にあり得ません

A「工場で一冬過ごしました」(P290)の後、工場から逃げて軍に捕まり慰安婦にさせられたと証言していますので、工場を逃げたのは1945年春=4月以降です。
「捕まってトラックに乗ってみると私だけでした。トラックは憲兵、運転兵と私の3人だけでした」(P292)としていますが、1945年以降日本国内では、燃料油が極度に欠乏し、松ヤニを燃料油の代わりに使用しようとしていたほどです。トラックは、軽油であり、日本の当時の戦車も軽油でした。司馬遼太郎さんは、学徒出陣の陸軍少尉で関東軍の戦車連隊所属でしたが、この時期には「本土決戦」用に日本に戦車連隊ごと帰って、米軍の上陸予想地点の一つである九十九里浜のある関東地方にいました。

逃げ出した朝鮮人小娘1人に対して、わざわざ、トラックを使用して運ぶことなど絶対にあり得ません。「本土決戦」用の燃料として、弾薬等軍需品運搬や戦車用として軽油は最重要品ですから!

B「女たちは軍人と一緒にトラックに乗って暗いうちに移動しました。2度目の場所には丸1日もかからず着いたようでした。車に乗って移動する時、片側にずっと海が見えていて(略)雪がたくさん降っていました」(P293〜P294)このようなことは、1945年4月〜5月当時の日本で、ただの兵隊と朝鮮人女性を運ぶために行うことは、絶対にあり得ません。そして、富山県で「雪がたくさん降っていた」わけですから、冬のはずです。

単なる私の推定ですが、この朝鮮人女性は、工場を逃げ出した後、小さな写真から推定すると若い当時は、かなりの美人であったと思われることから、日本国内の朝鮮人の愛人等となって短期間何とか生活し、帰国したものと思われます。


#19 尹  頭理 「強制連行された朝鮮人慰安婦たち」P301

1928年釜山生まれ。父親が建築業を営み家庭はゆとりのある方だった。しかし兄は結婚後精神異常で家出し、父もなくなって家運が傾きだして家庭がめちゃくちゃになった。1942年、15歳でゴム工場に働きに行くが、軍服工場に移った。そこの日本人課長に下心を持たれたのでまた職場を変えることになり、釜山鎮駅の前を通りかかった。その時派出所の前で巡査に呼び止められ、そのまま釜山影島の第一慰安所に連行され、慰安婦生活をさせられるようになった
【私の個人的見解】
証言内容は、ある意味で非常に洗練されています。この証言集?で最も優れた内容です。それほどまでに「嘘がうまい」のです。しかし、致命的な欠点があります。

「朝鮮半島で警察に強制連行され、朝鮮半島の慰安所で慰安婦生活を強制された」そうですが、吉見義明氏の「従軍慰安婦資料集」によれば、従軍慰安婦制度は、元来

@中国戦線で、日本人兵士による中国人女性への強姦が多数発生し、それに対する中国民衆の怒りが沸騰していたことへの対応。(「朝鮮人慰安婦強制連行説」の立場に立つ、吉見先生ですら、同資料集において、1次資料を明示された上で、「この点は間違いない」と明言されています。)
A陸軍が、性病罹患者の増加による戦力低下を懸念していたこと。

の2点により生まれた方式であり、上記二つを防止するための制度であったのです。そして、朝鮮半島内(=当時は日本国内でした)で、兵士が強姦すれば、内地(=現在の日本)と同様です。





  生年 いつ どこで 慰安婦となった直接の契機は? 騙したのは? 
金 
学順
1924年 1941
17歳
中国 中国の北京で日本軍に強制連行された

P44〜45
「北京に行けばよい商売になると言って、養父は私たちを連れて北京まで行きました。(略)将校が(略)スパイじゃないのか?こっちへ来いと言って養父を連れて行きました。姉さんと私は別の軍人に連行されました(略)両側からさっと担ぎ上げられて(トラックに)乗せられてしましました」
金 
徳鎮

仮名
1921年 1937
17歳
朝鮮 日本で女工募集と騙された

P59
「朝鮮の男が日本の工場で仕事する女を募集しに、また(故郷の)坪村に来たという話を聞きました。」
朝鮮人
李 
英淑
1922年 1939
17歳
朝鮮 日本で仕事が出来ると騙された

P73
「ある日、就職させてくれるという朝鮮人がいるから、日本に一緒に行こうとその子が言いました」
朝鮮人
河 
順女
1920年 1941
21歳
朝鮮 日本へ行けると騙された

P86
「朝鮮人の男1人と日本人の男1人が近づいてきました(略)自分たちについて日本の大阪へ行けばたくさんお金が儲かると話しました」
朝鮮人
と日本人
呉 
五穆
1921年 1937
16歳
朝鮮 日本の紡績工場で働けると騙された

P96
「金という人が私に(日本の)紡績工場に就職させてあげる(略)機を織る仕事で月給もくれるというのです」

朝鮮人
黄 
錦周
1922年 1941
19歳
朝鮮 日本の軍需工場に行かなければならないと騙された

P105
「私が住んでいた村の班長は日本人でしたが、(略)その夫人が村を歩き回って日本の軍需工場に3年の契約で仕事をしに行けばお金が儲かる1家で少なくとも1人はいかなくてはならないと暗に脅迫しました」
日本人
文 
必璂
1925年 1943
18歳
朝鮮 勉強できお金も儲かると騙された

P119
「(同じ村の日本人の手先の男が)勉強もできてお金も儲かるところに行かせてあげると言いました。両親には何も言わずに家を出ました。(略)トラックが止められていました。(略)日本人巡査のタナカと言う人も来ていました」
朝鮮人
李 
容洙
1928年 1944
16歳
朝鮮 日本人に騙された

P133
「国民服に戦闘帽をかぶっていましたその人は私に服の包みを渡しながら、中にワンピースと革靴が入っていると言いました。(略)もう他のことは考えもしないで即座について行くことにしました」
日本人
李 
玉粉
1926年 1937
11歳
朝鮮 12歳の時、誘拐された

P146
日本人は乗馬ズボンをはき、朝鮮人はパジ・チョゴリ姿でした。あんたのお父さんがチョさんの家で碁を打っているんだがあんたに来るようにと言ってるよと言いました。(略)チョと言う人の家に連れていかれ、私は納戸に押し込まれました」
朝鮮人と日本人
文 
玉珠
1924年 1940
16歳
朝鮮 16歳の時、軍服を着た日本人巡査に強制連行された

P162
「軍服を着た日本人が私に近寄ってきました。彼は突然、私の腕を引っ張って、日本語で何か言いました。その頃は、巡査という言葉を聞くことさえ恐ろしい時代だったので(略)連れていかれた先は憲兵隊ではないかと思われます」
李 
順玉

仮名
1921年 1938
17歳
朝鮮 日本の紡績工場で働けると騙された

P182
呉は、日本に絹織物の工場があるが、新しい工場を建てたので働く娘がたくさん必要だ(略)こうして私は呉に連れられて故郷を出ることになったのです
朝鮮人
李 
相玉
1922年 1937
15歳
朝鮮 日本の工場で働けると騙された

P198
「伯母があまりにうるさいので、14歳の時伯母の家を出ました(略)私が入っていくと、紹介所のおばさんにどこから来たと聞かれたので、(略)嘘を言いました。(略)1年ほど暮らしました。」

P199
「中には父親に売られて来た娘たちも居ました。(略)彼女たちはどこへ行くのかと尋ねると、日本人の軍属について日本の工場へ行くのだと答えました。私も行こうかなと言うと、彼女たちは一緒に行こうと言い、日本人の軍属に話してくれました」
朝鮮人
李 
得南

仮名
1918年 1939
21歳
満州 叔母が満州でカフェを営んでおり、仕事を探しながらカフェの手伝いをしている際に、誘われた。

P214
(カフェの常連の日本人男性が)ここより給料が良いカフェを紹介してやると姉さんたちに言いました。(略)私は姉さんたちについて行くことにしました。
日本人
李 
用女
1926年 1942
16歳
朝鮮 飲み屋の経営者に金を稼げると騙された

P230
「父は前金を受け取って、私を送り出したのです。(略)私が連れて行かれたところは(略)大きな飲み屋でした。(略)女主人が金をたくさん稼げる良いところがあるけどいかないと言いました。(略)どこへ行くのかと聞くと日本だと言いました。(略)行こうと思ったのです」
朝鮮人
金 
台善

仮名
1926年 1944
18歳
朝鮮 日本の工場で働けば金を稼げると騙された

P242
「(伯父)家族と一緒に昼ご飯を食べていました。ところが、ちょうどその時、国民服(あるいは軍服)を着た30代の日本人と背広を着た40代の朝鮮人1人が柴折戸を蹴って入ってきました。初めは2人とも日本語がうまいので、日本人だと思いました。(略)崔が金を稼ぎたくないか?日本に行って1年間だけ工場で働けば。たんまり金を稼ぐことが出来るから行こうと言いました。そのまま私は両腕をつかまれ2人に連れていかれました」
朝鮮人
日本人
朴 
順愛

仮名
1919年 1942
23歳
朝鮮 夫に紹介所に売られた。

P255
「(夫は)私を紹介所に売り渡しました、私が23歳」
P256
「紹介所には女を買いに各地から人がやってきました。(略)夫にお金が渡されたことは知っていましたが、それが私の借金だとは知りませんでした。(略)しばらくすると慰問団を募集するといううわさが耳に入りました。」



崔 
明順
1926年 1945
19歳
朝鮮 日本に行けば金が稼げると騙された

P272
「町内会の男が来て、家でぶらぶらしているのなら就職したらどうだと言いました。もしも何もしないで家にいたら、挺身隊に出されていくことになるだろう。日本に行って働けば金も稼げるし、挺身隊にもいかないですからと言うのです」
朝鮮人
姜 
徳景
1929年 1945
16歳
日本 1944年6月に女子挺身隊1期生として日本に行き、富山県の飛行機工場で働かされたが、空腹で逃げ出した時憲兵に逮捕され強制的に慰安婦にさせられた。

P290
「工場で一冬過ごしました」

P291
「夜でした。鉄条網を持ち上げ抜け出して、前に逃げたのとは違う方向に行きました。が、工場からいくらも離れていないところでうろうろと迷っているうちに軍人に捕まってしまいました。(略)捕まってトラックに乗ってみると私だけでした」

(参考:客観的事実)
1945年当時、「ガソリンの1滴は、血の1滴」とされていました。
尹  
頭理
1928年 1943
15歳
朝鮮 強制連行された

P303
「夕方5時か6時ごろ、釜山鎮駅前にある南部警察署を通り過ぎようとすると歩哨に立っていた立っていた巡査が来いと呼ぶのです。私は何もしていないのだから大丈夫だろうと思って、警察署の中に入っていきました。1943年9月初旬のことでした。警察署の中には私のような少女たちが数人いました(略)軍用トラックが1台来て2人の軍人が私たちを全員乗せて出しました」




強制連行又は誘拐されたと証言 5名

(内訳)
@誘拐された     1名(李 玉粉、11歳当時)
A警察に連行された  2名(朝鮮で文 玉珠,朝鮮釜山で尹 頭理)
B日本軍に連行された 2名(満州で金 学順,日本で姜 徳景)
騙されたと証言 13名

(内訳)
@日本へ行けると騙された 10名(金 徳鎮 ,李 英淑,河 順女,呉 五穆,黄 錦周,李 順玉,李 相玉,李 用女,崔 明順,金 台善)
A行先を特定せず騙された 3名(文 必璂,李 得南, 李 容洙)

売られたと証言 1名(朴 順愛)(注)李 用女さんは、父に売られた後、買った飲み屋の女主人に騙されたと証言している

19名中の10名(52.6%)が、「日本へ行ける」ことを理由に騙されたと証言している点に注目すべきです。

「日本による従軍慰安婦20万人強制連行説」を強く主張し、現在の韓国内で流布したのは、この書籍の編集者である「韓国挺身隊問題対策協議会」であり、「帝国の慰安婦」(朴裕河世宗大学教授)によれば、次のとおりで、極めて影響力の強い民間団体編集の証言集です。

帝国の慰安婦 P133
「慰安婦問題に関する研究所や論文は少なくないが(韓国挺身隊問題対策協議会=)「挺対協」は韓国内で「慰安婦」に関する情報提供者として絶対的な中心位置に存在してきた。そして、挺対協の運動は成功し、今や<強制的に連れていかれて性奴隷となった20万人の少女>の記憶は、<世界の記憶>となった。」

韓国内で「日本による従軍慰安婦20万人強制連行説」を流布した民間団体が発行した証言集で、上の表のページ数を明示した直接引用のように半数以上(19名中10名)の元慰安婦が「日本で仕事ができる」と騙されたと証言しているのです。

そして、「騙された」と証言している者は、上記を含め19名中13名=68%、全体の約7割にも達します。朝鮮人の民族性の最大の特徴とされる「嘘と騙し」が明確に表れています。

20万人朝鮮内強制連行説を韓国内で流布している団体が編集した慰安婦証言集で、
半数以上の者が「強制連行を行っていたはずの日本(内地)へ仕事で行ける!と騙された」と証言している


この点だけからみると、この証言集は、事実上、流布しようとしている強制連行説を明確に否定する内容です。
(重要であるのは、この証言集の出版時点であり、1993年10月に日本語訳が出版されています。従軍慰安婦問題が韓国内知られるようになった最初期の時点であり、現在では、恐らく証言内容が変わっているはずです)

なお、吉見氏が1次資料をまとめた「従軍慰安婦資料集」(大月書店)によって、従軍慰安婦の多くは、朝鮮半島で「売られた」結果であることは明白ですが、半世紀近く=50年経過しても、夫に売られたことは証言できても、父に売られたことを証言できないのは、韓国における儒教(韓国では、性理学と呼ぶ)の影響です。

下記画像4枚は、いずれも同資料中の米軍捕虜尋問記録の日本語訳の一部です。





また、約7割の元慰安婦が、50年後に、「騙されたのだ!」と証言していますが、現在の感覚であえて言えば、日本の平均的サラリーマンの月平均所得相当分(30万程度)の少なからぬ前渡し金を受け取った上で、騙され、自ら海外勤務に応じたことも歴史的事実です。



さらに、慰安婦生活は、性に飢えた日本軍兵士を相手にしなければならず、悲惨でつらいものであったと容易に想像できますが、少なくとも、ビルマ ミッチナの慰安所生活は、物質面では、下記1次資料のように、比較的恵まれていたようです。





はっきりと言い切ります。吉見先生が聞取りを行った2013年以降,即ち、韓国内で「従軍慰安婦の少女強制連行説」が半狂乱状態の韓国人に信じられるようになって以降の元慰安婦の高齢の女性への聞取りは、全く無意味であったと!何故吉見中央大学名誉教授は、上記の点に気づかれないのでしょうか?私は、不思議で仕方ありません。

恐らく、吉見先生は、従軍慰安婦問題のような重大な事柄に関し、直接の当事者自身が「完全な嘘を言うはずがない」という日本人的価値観で判断され、「朝鮮半島内の慰安婦強行連行説」の立場に立っておられるのだろう?と推測しますが、朝鮮人の場合、「上手く嘘をつくことが出来る人=優秀な人」 という我々日本人から見れば、本当に信じがたい通念が一般化しているのも事実です。(例:日本の約10倍にも達する自動車事故入院率 カイカイ反応通信より


生年 いつ どこで 慰安婦となった直接の契機は? 騙したのは? 
黄善順 1924年 1942
18歳
朝鮮 (日本の)工場に行けば儲かるとだまされた。

「行けば工場がたくさんあるから,お金がたくさん儲かるから行こうって.」(P150)
朝鮮人
安 
点順
1928年 1941
13歳
朝鮮 軍人や警察に強制連行された

「浦区ポクサコルに住んでいた時に,ある日,嫁にいっていない娘たちに集まれって言うの,統長〔市の行政区域である統の長.統は洞の下で班の上〕が.それで出て行ったのよ.前に大きな精米所があったのよ.その精米所に連れて行かれたの.そこには米を量る秤があったの.その秤に一人ずつ上がれって言うのよ.全く,今考えたら人間扱いじゃないよ.米を量る秤に載せたんだから.それで目盛りを見て,何キロだとか何とか言うのよ.当時,私は大きかったのよ.それからそのまま連れて行かれたのよ.」(P106)
金 
福堂
1926年 1940
14歳
中国 軍人や警察に強制連行された

私はまだ14歳だから考えてもいなかったんだけど,軍服,階級〔章〕のない軍服を着た男2人と警察官ひとりと村の班長が一緒に来て,私に,今日本で戦争をやっていて軍服をつくるのに人手が足りない,だから軍服をつくる工場に行かなきゃいけない,と.そしたらお母さんが,まだ幼い子を工場には送れない〔と言ったが〕,行って習えばいい,もし逆らったら,日本に反対する反逆者だということで全財産を没収して外国に追放する,と.それで工場に行くんだからまさか殺されはしないだろうとついて行ったところが工場ではなく,戦場で,日本軍の奴隷になって無残に踏みにじられた過去がどれほど辛いか,話していると本当に胸が痛むよ

玉善
1927年 1942
15歳
朝鮮 軍人又は警察に強制連行された

お使いに出て,大きな道に出た.それである建物の前に出た.出たら,男が二人,道を塞いでいた.それが軍人なのか,巡査なのか,分からない.「お前どこに行く,名前は何だ」こういうことも聞かないで,無条件に連れて行く.一人がこっちの腕を捕まえて,もう一人がこっちの腕をつかんで,とにかく有無を言わさず連れて行く.だから驚かないわけがない.


もうこれ以上、韓国と関わり合いを持つべきではないと強く感じるとともに、

一刻も早く、韓国を短期滞在ビザ免除国から除外するべきです。



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